2011年



ーー−1/4−ーー 今年の抱負


 年頭に当たり、今年の抱負を述べるなどという、殊勝な気持ちになった。

 今年は、大竹工房の開業20周年になる。それなりの心構えで過ごさなければならないと思うが、祝賀会や記念式典を開くような余裕は無い。せいぜい、11月に予定されている毎年恒例の展示会で、20年の節目をアピールするくらいか。あるいは、我が家に遊びに来てくれる知人、友人がいれば、ささやかな記念の宴を持ちたいと思う。

 非常に厳しい世間情勢の中で、今年も生き残りをかけた闘いになる。しかし、夢を抱いて始めた仕事であるから、採算はおぼつかなくとも、今までの路線、つまり無垢の木材を使った、丁寧で行き届いた仕事という方針を崩すことなく、頑張りたいと思う。とにかく作りまくること。それに徹するしかない。作ったものは必ず売れるという、これまでの経験を拠り所にして、制作に励もう。

 純粋な肉体労働であるこの仕事を支えるのは、健康な体である。昨年の前半は腰痛に悩まされ、仕事のペースが上がらず、辛い日々を過ごした。それを夏までに、工夫と努力でなんとか克服した。また、秋の人間ドックでは、完全な健康体だと言われた。今年もその健康を維持できるよう、節制と、体力作りに留意したい。

 数年前から復活した登山に、今年も取り組みたい。登山のためであれば、体力トレーニングもする。それが健康維持にもつながる。泊りがけの登山に、頻繁に出掛ける余裕は無いが、近場の山に、日帰りで登るくらいなら、仕事の合間を見て行けるだろう。できれば家内を伴って登りたいが、それは彼女の膝の具合による。

 趣味の楽器演奏も、今まで通り続けたいと思う。しかし、そういうことに張り切り過ぎると、本業がおろそかになる。元来がそういう性格だから、注意しなければならない。自宅でひっそりと、気晴らし程度に楽しむのが良いだろう。

 他にはこれといった目標は無い。盛り沢山なことを考えても、しょせん射程範囲は極めて狭い。「余計な事を考える暇が有れば、仕事をやれ」。自らにそう言い聞かせて、仕事に邁進することを是としよう。

 今年58歳になる。サラリーマンならそろそろゴールが見えてきた頃だろう。しかし、自営業にゴールは無く、何歳になっても、こぎ続けなければ倒れる自転車、泳ぎ続けなければ死んでしまうサメ、描き続けなければ餓死するゲゲゲの何とかである。



ーーー1/11−−− スキー今昔


 友人の中には、60歳を過ぎてもスキーに熱心な人がいる。この地で知り合った人、リタイアして移り住んだ70際近い男性も、いまだに驚くほどの回数をスキー場に通う。かく申す私は、さっぱり行かなくなった。ここ数年間で、スキーに行ったのは、2006年と2008年の、ともに3月のー回ずつだけである。

 私は、大学に入ってからスキーを始めた。山岳部の先輩に連れられて行った最初のスキー場は、群馬県の鹿沢。山岳部の小屋を根城に、昼はスキー、夜はOBを交えて宴会をした。その小屋も、スキー場も、今は無い。

 当時は、スキーの人気が上昇しているさ中だった。どこのゲレンデもスキーヤーが溢れていた。信州は大糸線沿線のスキー場にも足しげく通った。週末に、夜行列車で行くことが多かったが、新宿駅から混んでいた。スキーヤーのための待機場が設けられ、列車の出入りが少ないホームなどがその場所として定められた。寒風吹きすさぶホームで、何時間も待った。そうしなければ、列車に乗れなかったのである。

 金を節約するために、テント持参で行くこともあった。ゲレンデの脇にテントを張って、自炊をし、泊まるのである。その当時は、同じようなことをやるパーティーが結構いた。天神平のスキー場では、夜中に大量の降雪があり、テントがつぶれた。その上悪天候でロープウエーが止まり、下界へ降りれなくなり、ロープウエーの駅でビバークをした。そんな笑い話のようなこともあった。

 どこのゲレンデも混んでいた。リフトに30分並ぶなどというのはざらだった。ひどいときは1時間以上並ぶこともあった。天気が悪くても、リフトが動いていれば滑った。吹雪のような天気の中で、じっとリフトの列に並んだ。黙々と列を作るスキーヤーの肩に、雪が降り積もった。

 そんな事をものともせず、せっせとスキー場に出掛けた。今から思うと、何がそんなに楽しかったのかと疑いたくなるが、とにかく熱中していたのである。

 わざわざ北海道まで遠征したことも、何度かあった。富良野のスキー場では、さびれた民宿で、ルンペン・ストーブにかじりつくようにして暖を求めた。北海道でよく使われた、石炭ストーブである。道路を挟んだ向かいの旅館へ風呂を借りに行ったら、帰りにタオルも髪もバリバリに凍った。そんな旅情が懐かしいスキーの旅であった。

 5月に、ニセコを滑ったこともあった。これも、天気に恵まれて、存分に楽しかった。湯本のスキー場には、客の姿は無かった。宿のおばさんに「リフトは動くだろうか?」と聞いたら、「お客さんが行けば、動かしますから大丈夫」と言われた。ひっそりとした林間の斜面を、丸一日、縦横無尽に滑った。最後の日には、ゲレンデから足を延ばして、ちょっとした山スキーも楽しんだ。

 楽しい思い出に包まれたスキーである。しかし今ではやりたいという気が起きない。我が家から、車で30分も走ればスキー場である。行こうと思えば、すぐに行ける。天気の良い日を選び、もちろん週末は外す。そんな恵まれた環境にありながら、食指が動かない。いったいこれは、どうした事だろう? 歳をとって、億劫になったのか。山登りなら、今でも十分に興味があるのだが。

 スキー場も様変わりした。客の減少が、毎年続いている。一昔前なら、平日でも混んでいたメジャーなスキー場が、今では休日でも空いている。マイナーなスキー場の中には、営業を止めたところもある。5年前に行ったスキー場は、それなりの規模の所だったが、春休みシーズンなのに、人がほとんど乗っていないリフトが、カラカラと回っていた。

 先日、スキーをやる知り合いのブログを見たら、馴染みのスキー場で、一日券が紙になったと書いてあった。磁気カードによる自動改札から、昔のやり方に戻ったということ。自動改札のシステムのメンテナンス費用が、負担できなくなったためらしい。大きな投資をした最新設備ても、客足が遠のけば単なるお荷物になる。事態の深刻さがうかがえた。

 あれほど熱気のあったスキー場が、何故このようにすたれてしまったのか。わが身の熱の冷めようと合わせて、不思議な事である。



ーーー1/18−−− 部品保管期限


 家内のミシンが故障した。小さな部品の一部が欠損したようだった。メーカーに電話したら、保管期限が切れているから、基本的に部品は無いと言われた。ちなみにこのミシンを買ったのは30年前である。それでも、直せる可能性はあるから、送って貰えれば見ますとの話だった。直せない場合でも、点検のための最低限の費用は掛かると言われたが、家内はそれを頼んだ。結果的に、ミシンは直って戻ってきた。

 部品の保管期限はどれくらいなのか。ネットで調べたら、工業製品の部品保管期限は、製造打ち切り後7年前後が多いようだった。ところで、保管期限とはどういうことだろう。製造を止めた時点で保有していた部品を、その年数の間は廃棄してはいけないということだと思うが、よく考えてみると、興味深い。

 そもそも、修理用の部品をどれくらいの量で準備しているのか。準備している量が少なければ、保管期限以内に使い切ってしまうことも有るだろう。逆に、準備している量が多ければ、保管期限を過ぎても残るに違いない。部品によっても事情は異なるだろう。壊れやすい部品は多く取っておく必要があるし、ほとんど壊れない部品なら、少しで良い。他の機種と共通で使える部品なら、話は違ってくる。また、部品自体の経年劣化という問題もあるはずだ。そして、保管期限を過ぎて残った場合に廃棄するのか、それとも保管し続けるのか。これらの事は、メーカーの方針によって、千差万別ではないかと想像する。

 製造を打ち切った機械の部品を保管するのは、無駄な経費がかかるので、できれば早く処分したいと考えるメーカーもあるだろう。修理より買い替えを勧めるのは、いわば現代的商法の常套手段でもある。それに対して、企業の責任として、なるべく長い年月に渡って、修理を行える体制を維持しようとするメーカーもあると思う。

 ミシンなどは、修理をして使い続けるという文化が、比較的定着しているジャンルかも知れない。メーカーによっては、下取りした機械の部品を、修理用として保管しているところもあるようだ。だから、ユーザーとしては、部品の保管期限が過ぎているからと言って、簡単に修理を諦めてはいけないと思う。30年前の機種でも、ちゃんと直してくれるのだから。

 ところで、我が生業の木工家具製作。素材が木だから、部品が作れないという事はまず無い。もし100年後に、私の家具が壊れたとしても、おそらく直してくれる木工家が、その時代にいるだろう。そう考えると、なんだか嬉しい気がする。問題は、100年後の人が、直してまで使い続けたいと感じてくれる物を、現代の私が作ることだ。



ーーー1/25−−− 昔は木が嫌いだった


 「どういう理由で、この職業に入ったのですか?」という質問を、よく受ける。そして、「この仕事を始める前も、木工が好きだったのですか?」とも聞かれる。

 思い返すと面白いことに気が付いた。小学生の頃は、木をいじって物を作るのが好きだった。高校生の頃も、大工道具を使って、靴箱などを作っていた(その靴箱は、なんと現在も我が家にある)。ところが、成人した前後から、そういうことをしなくなった。むしろ、木や木製品に対して嫌悪感を覚えるようになった。

 木には、汚れる、傷む、腐る、弱い、割れる、均一でない、棘を刺す、など、マイナスイメージがつきまとった。それに対して、金属やプラスチックには、丈夫で、清潔で、安定していて、信頼できる、素晴らしい素材という印象があった。そういう工業製品に囲まれて暮らすのが、素敵な生活だと思っていた。木で作られているものなど、ダサいと感じていたのである。

 何故そのような考えを持っていたのか。理由は分からない。年齢的なものだったのか、それともそういう時代だったのか。

 現在の私は、全く逆である。木でできたものは大好きである。新しいものでも、古いものでも、大きいものでも、小さいものでも、木で出来たものには魅力を感じ、愛着を覚える。

 反対に、木で出来たものが見当たらない場所に入ると、落ち着かない。電車、自動車などに乗ると、どこにも木が無い。マンション、事務室などの室内にも、ほとんど木が使われていなかったりする。また、机や椅子などの調度品、テレビやパソコンなどの電気製品、生活の小物なども、石油化学製品か金属が主流である。そういうものに囲まれた場所にいると、気持ちが不安定になるような気がする。木が無いとイライラする。まるで、禁断症状である。

 自宅に戻って、木製品に溢れた環境に身を置くと、気持ちが安らぐ。何がどういうふうに良いのかは分からない。理屈ではなく、感覚の問題である。あるいは無意識の領域と言えば良いか。

 化学工業製品が日常生活に入り込んで来たのは、戦後である。ほんの半世紀前のこと。それまでの数万年は、住居も含め、木が生活道具の主役であった。金属製品は、木を加工するために使われた。木を使うということは、人が生きることそのものだったのである。

 化学製品の便利さに傾きかけた心が、時として木で出来た物のほうに振り戻されるのは、太古の昔から脈々と続く、人の魂の深部からの呼び声によるものではなかろうか。







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